世界保健機関(WHO)は生後2年まで離乳食を併用しつつ母乳を与えることを推奨している。大西洋ハイイロアザラシ(学名 Halichoerus grypus)は子にわずか17日間しか乳を与えない。授乳期間が短い代わりに乳により多くの栄養素を含めている。
スウェーデンのイェーテボリ大学化学分子生物学科のダニエル・ボヤル(Daniel Bojar)教授の研究チームは「大西洋ハイイロアザラシの乳は人間の母乳より約33%多様な糖分子の種類を持っている」と25日(現地時間)に国際学術誌「ネイチャー・コミュニケーションズ」で明らかにした。研究チームはアザラシの乳に含まれる糖分を研究すれば、乳児にとってより良い粉ミルクを開発できると期待した。
◇大型の糖分子で病原体の排除能力を高める
哺乳類の乳には脂肪、タンパク質とともに多様な糖類が含まれている。これらの糖類はそれぞれ異なる役割を担う。例えば人間とウシに相対的に豊富な乳糖はエネルギーを供給する。とりわけ基本単糖類3〜10個が連結したオリゴ糖は、疾患を引き起こすウイルスや細菌を防ぎ、腸内微生物の初期群集を形成して胃と腸の発達を促進する。
ハイイロアザラシは生後17日間に母乳を飲んで消化器官を稼働させ、北大西洋で遭遇し得る疾病とリスク要因から身を守る免疫系を構築しなければならない。科学者は短期間でこうした課題をこなすには母親の乳が極めて精巧に構成されているはずだと推測した。スウェーデンの研究チームはこの仮説が事実であることを立証した。
ボヤル教授は「人間の母乳は最大250種のオリゴ糖を持つが、ハイイロアザラシの乳には332種もあることが分かった」と述べ、「このうち3分の2は完全に新しい物質だった」と語った。特にアザラシの糖分子の一部は28個の単糖類で構成される前例のない大きさを示し、これは母乳で知られている最大の糖単位(18個)をはるかに上回る数値だと研究チームは明らかにした。
動物の乳に含まれる糖はそれだけ重要な役割を担うが、人間以外では十分に研究されてこなかった。子を守ろうとする母親から乳を採取すること自体が難しいためだ。ボヤル教授は「われわれは初めて野生哺乳類の乳から分泌される乳糖を授乳期間中に分析することができた」と述べた。
◇速成の成長に合わせて乳糖も変化
英国セントアンドルーズ大学海洋哺乳類研究所のパトリック・ポメロイ(Patrick Pomeroy)博士は、スコットランド沿岸に生息する野生のハイイロアザラシ5頭を鎮静剤で安定させ、授乳期間中に複数回にわたり乳を採取した。新規の乳糖240種を質量分析した結果を人工知能(AI)に学習させたところ、アザラシの乳の構成成分は母乳と同様に授乳期間を通じて変化をたどることが明らかになった。
ボヤル教授は「アザラシで新たに発見された糖分子を人間の免疫細胞に試験した結果、多様な脅威に対する細胞反応を調節できることを確認した」とし、「この結果は、極限環境のストレスと高い外部リスクにさらされる野生海洋哺乳類が、急速に成長する子を守るために人間より複雑な乳を進化させたことを示唆する」と説明した。研究チームは、アザラシの複数の乳糖分子が病原性バクテリアに対して強力な抗菌能力を持つ事実も確認した。
米国カリフォルニア大学デービス校(UCデービス)動物学科のラス・ホビー(Russ Hovey)教授は同日、ニューヨーク・タイムズ紙に「今回の発見は広範な応用可能性を持つ」と述べ、「哺乳類の乳は人々が考えるより遥かに複雑で価値があり、貴重で多様だ」と語った。
研究チームは今後、哺乳類の乳から乳児の栄養と感染管理、免疫系の強化に役立つ新たな生理活性化合物を発見できる可能性があると明らかにした。母乳に代わり、乳児により良い機能を果たす粉ミルクを開発する道が開けたということだ。乳児だけでなく成人も胃腸の健康維持に活用できる。
ボヤル教授は「われわれの研究チームは世界で初めて質量分析法を活用して哺乳類の新たな乳糖を深く分析した」とし、「これまで10種の哺乳類で分析を進め、毎回固有の糖分子を発見した」と明らかにした。研究チームは既にさらに20種の哺乳類の乳を採取して分析している。
◇乳糖の分析で哺乳類の進化も研究
乳糖の分析は進化研究にも役立つ。人間が属する哺乳類は乳腺から乳を分泌して子を育てる。この点が他の種類の動物と区別される最大の特徴である。クジラが魚類ではなく哺乳類である理由も乳にある。
哺乳類は約2億年前に卵を産む卵生の爬虫類から初めて出現した。時が経つにつれて哺乳類の大半は卵生から、母体の腹の中である程度成長した子を産む胎生へと転換し、乳を与えて子を育てた。では乳を与えたのが先か、それとも胎生が先か。
スイスのローザンヌ大学の研究チームは2008年に国際学術誌「プロス・バイオロジー」で、授乳を可能にした遺伝的変化が爬虫類から哺乳類への進化をもたらしたと発表した。哺乳類の中には卵生もいる。カモノハシとハリモグラがそれに当たる。
研究チームは人間とフクロネズミ、イヌ、カモノハシの授乳および卵生関連遺伝子を分析した。分析の結果、乳に含まれるタンパク質を作る遺伝子は2億年から3億1000年前に生息した哺乳類の共通祖先に由来していた。
一方、卵で成長するのに必須のビテロジェニンというタンパク質を作る遺伝子も哺乳類4種類すべてに存在したが、カモノハシを除いては突然変異のため機能していなかった。この遺伝子は7000万年から3000万年前の間に最後に機能を失った。
これは胎盤が進化する前に、すでに哺乳類が授乳を始めていたことを意味する。哺乳類は卵を産むことをやめる前からすでに授乳を開始しており、もはや子に卵で栄養を供給する必要がなくなったことで卵を産まなくなったということだ。哺乳類は卵より乳が先だったというわけだ。
参考資料
Nature Communications(2025)、DOI: https://doi.org/10.1038/s41467-025-66075-2
PLOS Biology(2008)、DOI: https://doi.org/10.1371/journal.pbio.0060063