中国の経済改革と世界貿易機関(WTO)加盟を主導した「経済改革の司令塔」である元中国国務院総理のジュ・ロンジが12日に死去した。享年98。
同日、中国の国営新華通信によると、中国共産党中央委員会と全国人民代表大会常務委員会、国務院、全国政治協商会議はこの日、訃報を通じて、元総理が病気で治療を受けていたところ同日午前11時6分に北京で死去したと発表した.
ジュ・ロンジ(朱鎔基・1928〜2026)元総理は、同時代の中国で尊敬される政治家の一人とされる。中国現代史の激動のなかで失脚と復権を重ねた末に中国経済を担う地位に就き、果断な改革・開放政策で今日の経済大国を築くことに寄与した。
故人は1928年、湖南省長沙で生まれた。出生前に父を亡くし、9歳ごろには母も亡くして伯父のもとで育った。1947年に名門の清華大学に入学し、動力機械製造を専攻し、1949年に中国共産党に入党した。
1951年の大学卒業後、東北人民政府と国家計画委員会(現・国家発展改革委員会)で経済官僚として経歴を積んだが、反右派闘争(1957〜1958年)と文化大革命(1966〜1976年)という中国現代史の大きな荒波に巻き込まれることになった。
1957年、党の整風運動の方針に従い国家計画委員会内で示した意見が問題視され、「右派分子」に分類される根拠となった。降格後、1962年まで第一線から退き、その後に国家計画委員会の業務に復帰したが、文化大革命が始まると再び試練に直面した。1970年から1975年までは集団農場で肉体労働に従事した。
元総理が経済官僚として本格的に再起したのは、トウ・ショウヘイ主導で改革・開放が始まった1978年からである。国家経済委員会で燃料動力局処長や総合局副局長、技術改造局長などを歴任して昇進し、1987年には上海の党委副書記兼市長に就いた。
上海時代には、トウ・ショウヘイの改革・開放路線に従う中核人材として台頭した。浦東地区のインフラ建設と経済・金融改革、対外開放を主導し、上海の成長を牽引した。中国内外では、トウ・ショウヘイがこの頃に元総理を次期指導者に指名したとの評価が一般的である。
元総理は、ソ連と東欧の社会主義圏が相次いで崩壊し、中国内の保守派が改革・開放路線を攻撃していた時期にも、トウ・ショウヘイを積極的に擁護した。その後、1992年のトウ・ショウヘイの南部視察を機に改革・開放路線が再び勢いを得るとともに、元総理の立場も一層盤石になった。
トウ・ショウヘイは1992年の工場視察で「われわれは幹部を選ぶとき、経済を理解する人物を選ばねばならない。ジュ・ロンジこそ経済を理解する人物だ」と公然と信任を示した。同年10月、党中央委員会の候補委員にすぎなかった元総理は、いくつもの段階を飛び越えて最高指導部である党中央政治局常務委員(序列5位)に入った。
その後、副総理(1991〜1998年)兼中国人民銀行総裁(1993〜1995年)、総理(1998〜2003年)などを経て、中国の経済改革の責任者を一手に担うことになった。手が届かなかった分野を探すのが難しいほど隅々まで改革を主導したことから、海外では「経済ツァーリ」という異名も得た。
代表的な業績は国有企業改革である。当時の中国の国有企業は、人員過剰や低い生産性、資源の浪費、負債の累積などによって慢性的な赤字に苦しんでいた。元総理は「大きいものは握り小さいものは放す」(抓大放小)という方針のもと、核心的な大型国有企業を中心に産業を再編した。競争力の劣る中小型国有企業は合併・売却し、生存能力のない企業は破産・退出させた。
果断な改革には相当の社会的コストも伴った。リストラの過程で数千万人の国有企業労働者が、いわゆる「鉄飯碗」の職を失った。当時は社会保障と再就職支援の体制が十分に整っていなかったため、大量の労働者を社会の外へ追いやったとの批判も受けた。1994年に導入した分税制も、元総理の改革の光と影を示す事例である。中央政府に財政を集中させて改革を推進する原動力を確保した一方で、地方政府の慢性的な財政難や農民の負担を増やし、不動産バブルを招いたとの評価もある.
一方で、1997年のアジア通貨危機当時の迅速な対応と、2001年の中国のWTO加盟は、代表的な業績と評価される。とりわけWTO加盟は、中国を世界の貿易体制に本格的に編入し、世界経済の中心へ跳躍する踏み台となった。中央政府の組織改革と反腐敗政策も主要な成果に挙げられる。
中国の党政はこの日、2700余字にわたる公式の訃報で業績を詳述したうえで、「ジュ・ロンジ同志は人民大衆に深い情を抱いていた」とし、「政府工作人員(公務員)は自らが人民の公僕であることを肝に銘じ、あえて真実を語り、嫌われることを恐れず、特殊化(特権化)してはならないと強調した」と説明した。